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●麻酔の脳への影響をめぐって:ある個人的な体験から [医療]

■本年一月,鼓膜内にできた腫瘍;真珠腫を外科的に取り除き,鼓室を形成する手術を受けることになった.僕の場合,外耳の清掃をしていたところ鼓膜であるはずのところが実は大きく欠損していて,そこから真珠腫が発見されるという経過をたどった.直近の中耳炎の炎症から始まる真珠腫ではなく,かなり以前の中耳炎が放置され鼓膜形成が成立しないまま上皮が成長して形成されたのであろう.内視鏡で精査したところ,先生の説明では耳小骨の内,槌骨部分が完全に真珠腫に覆われてしまっていて,骨部分と切り離すことは容易では無いと言う.これは素人判断からしても実体顕微鏡下で行う難度の高い手術だと思った.麻酔は当然ながら全身麻酔である.

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ギリシャの英雄オデュッセウスは故郷への海上帰路の途中,抗しがたい美声を持つ死の怪獣セイレーンに対抗するため船乗り達には蝋の耳栓を,自身は歌声を聴くためマストに縛りつけさせたという.これは聴覚の魅力を雄弁に示すエピソードととれなくもない.

■全身麻酔を受けることにそれほどちゅうちょは無かったが,一つだけ気になっていたことは麻酔に関して記したある短報を最近読んで思い当たることが有ったからである.それはC.ストーズ(サイエンスライター)による僅か2ページの記事で,麻酔が脳に長期の副作用をおよぼす可能性があることを指摘するもので有った(麻酔に隠された危険, 日経サイエンス,2014年9月号,pp52-53; Hidden danger of going under, Scientific American, April 2014).術後譫妄(せんもう)のカテゴリーに入る各種の現象は1980年代には知られていたが,それを麻酔の副作用と見る見解は少なかった.では何が原因と推定されていたかというと,手術そのもののストレスが引き金となって,それまで顕在化されていなかった脳の老化や病変が表に出てきたとする見解である.ところが最近の研究では麻酔そのものに譫妄の原因を求める方向に転換してきたと言う.つまり麻酔という通常では起こりえない人為的な脳機能の一時停止の機構そのものに潜む危険性を指摘する方向と言ったらよいであろうか.

■しかし,とりあえず手術を前にした僕自身が関心を持ち,一抹の不安を抱いているのはこの術後譫妄の議論そのものではない.術後に時として起こる混乱,記憶喪失,特に恐怖の幻覚という激烈な体験についてである.レポートの中に記載されているジョンズ・ホプキンス大学公衆衛生学教授;ベーカー氏が術後見た生々しい悪夢,それは火の海が迫る中での孤立無援状態という幻覚であった.術後とは関係ないが僕自身もレム睡眠時に楽しいとはいえない夢を見たことがある.それはさしせまった恐怖と言う類のものではないが,例えば見渡す限りの無人の荒野でトロッコに乗り一人谷底に向かって滑り落ちるといった殺伐たるものであった.術後譫妄に陥った時はどのような悪夢が待ち構えているのであろうか.

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術後譫妄のカテゴリーに入る悪夢の体験は18世紀ロマン派の画家フュースリーが描いた“悪夢”とは異なり,いずれも著しく現実的な生々しさに満ちている.

■ここで話の都合上ちょっと私的な人間関係に関するコメントをしておかなくてはならない.当日の執刀医は遠藤周一郎医師,この難しい手術に関しては県下で唯一数十例の実績を有する大ベテランである.麻酔を担当するのは玉木章雅医師率いるチームで両者は山梨大学医学部卒業の11期生である.現在の山梨大学医学部の前身は山梨医科大学という単科大学で,この創設期から定年で退職するまでの25年間1.2年生の生物系授業に携わってきた自分と両氏とは師弟関係ということになる.とは言っても当時の僕の教育が適当なものでなければ師弟関係だからと言って良い印象を持たれるかどうかは分からないであろう.世に言う教師の誤解の一つがこの師弟関係という代物で,問答無用で尊敬されるかどうかなど保障される筈がないのだ.しかし11期生を教えていたころの僕は担当科目の分子細胞生物学の現状や将来に関しても明るい確信を感じていて,それを伝えるため深夜まで授業準備をしたり,土曜輪読会を毎週行ったり,コンパ会場として自宅を開放したりで教育に燃えていたように思う.だから患者と医師というかたちで遭遇することになったにしろ僕自身はどこかうきうきとしていたかもしれない.

■ともあれ手術着を着用して,1月の20日,看護師さんに案内されて手術室に行くことになった.連れの万里子氏の心配そうな顔が気になったがもう悠然と手術に臨むしかない.手術室に入って驚いた!まるでスマホ画面のような手術台に登ると数え切れないほどのLEDを並べたと思われる円形の大きな照明灯が,自在に動けるような支柱に据えられて複数個見下ろしている.周囲には無数のモニターが並び,およそ手術室には見かけないような巨大な照射装置と思しき巨大なアームが見える.後にこれはドイツMaquet社製のハイブリッド手術室だと分かったが,その時はまるで宇宙船のようだなと思う内に意識を失ってしまった.それからどのくらい経過したのか分からないが,暖かい春のような日差しの下,11期生の面々と会った.あまりの懐かしさに思わず涙がこぼれそうになった時,遠くから「志田さん,終わりましたよ」という声が聞こえてきた.これは夢だろうか,と思う間もなく現実世界が彼方からやってきて幸福感は消えてしまった.手術は無事終わったのである.
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体験した手術室は開設されたばかりのハイブリッド手術室で,可視情報だけでなくCTなどの画像診断像情報を援用できる新しいタイプの手術室だということが後で分かった.しかしその時の印象はまるで宇宙船の中にいるような不思議な浮遊感につつまれていたように思う.

■結局僕は悪夢の譫妄ではなく,覚醒時人生でこれ以上経験したことがないような幸福な夢を見た.
文頭でふれた麻酔後の譫妄に関して言うと,譫妄には記憶喪失,幻覚,論理の崩壊等に加えて鮮明な悪夢もあげられている.術後の一時的混乱というよりはもっと長期にわたるもので,場合によっては月単位以上に及ぶ場合もあるという.そのことから考えると,僕の場合は譫妄ではなく一時的な覚醒前ないしは覚醒過程での夢ということになるのであろう.ただちょっと不思議なのは譫妄のカテゴリーに入る夢がなぜ幸福な夢ではなく悪夢となるのだろうか.それも18世紀のロマン派の画家フュースリーの手になるシンボリックな“悪夢”ではなく,もっと直裁な現実界で起こりうるような悪夢ばかりになるのが不思議と言えば不思議である.

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