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物語の可能性(1)未知領域拡大の異なるベクトル.B [内面の世界]

ミロのヴィーナス.jpg
ドラクロア.jpg
人間の心とか魂とか呼ばれている内側の世界に,強い関心が寄せられるようになったのはいつごろからからでしょうか.宗教の源流をホモサピエンスの特性に求める考えもあるので,特定の時代からでは無く人類の誕生と同時に内面への旅は始まったと考えてもいいわけです.しかし,例えばギリシャ時代の彫刻を見ても,その表現するものに心の動きなど読み取ることは無理があるようです.あまりにも有名なミロのヴィーナスですが,肉体の美しさに圧倒されるにしても,人間的な共感などそもそも求めていないのではないかと思うときがあります.サモトラケのニケには顔が無いし,彫刻で人間の内面を集中的に物語るようになったのはずっと後,ロマン派あたりになってからではないでしょうか(日本では阿修羅のような彫刻があるので決め付ける分けにはいかないのですが).
人間の暗黒面を含めて,心のスペクトルを限界まで広げて実相を発見しようとする試みはロマン主義絵画で一つの頂点に達しました.ジェリコーは精神病院に通って狂女を描き,迫真の描写力で殺人鬼の不気味な相貌を捉えることに成功しました.戦争や虐殺など歴史の中で繰り返される集団狂気に対する強い関心はロマン主義絵画の共通した嗜好になるのですが,その典型とも成った大作が同じジェリコーの手になる”メデューズ号のいかだ”です.当時の実話を題材としながら,荒海に放り出されいかだで漂流する大勢の人間の極限状況のドラマを,壮大な構図で描き出しました.この主題はドラクロアに引き継がれ,赤や緑という強烈な色彩や波打つ線を得て革命や戦闘にロマン主義の表現が荒れ狂いました.しかし,フランス絵画の黄金の100年と呼ばれる印象派の登場で,この心の領域の探索というドラマはフランスでは終わりとなるのです.
 未知領域の拡張の二つのベクトル;外側と内側の世界に向けての未知領域の拡張の内この内側に向けての動きは少なくとも現代絵画では後方に退いたと思います.”フランスでは”と限定的に言いましたが,確かに波が何度も打ち寄せるように人間の内面を追求する動きは何度と無くその後フランス以外の国で登場しました.ムンクとかスーチンとかエゴン・シーレ,クリムト,はては現代におけるアンゼルム・キーファーとかシンディー・シャーマンを持ち出すことが出来るかもしれません.しかしこのような領域が魅力あるものとしてこれから主流に成り得るのでしょうか.奇妙でグロテスクなものを作品化し人々を驚かすことは出来るでしょう.お化け屋敷とか見世物小屋のように.しかし深く魅力ある物語性はどのようなものになるのでしょうか.

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共通テーマ:学問

物語の可能性(1)未知領域拡大の異なるベクトル.A

想像力に基づく未知領域なら,自由にどのような世界でも創造できるかと言うとそうではなさそうです.人間の想像力というものも実は時代的な制約の中でしか飛翔出来ない.現実世界と一般に受け入れられたものと,想像世界との関係も正誤の関係で結ばれているとは限らないことはコロンブスの”新大陸発見”を見れば明らかです.世界観の大変換というものを経験したことがない僕等はその衝撃がどれほどのものか理解できないところが有るのですが,当時のヨーロッパ人の常識を前提にすればその衝撃の大きさを想像できるかもしれません.陸地は円盤状の平面であり,北と南の大洋は氷と炎の暗黒に閉ざされていると思いこんでいたのですから.わずか500年前のことです.大西洋の端を目指して出航した船団の乗組員の多くが,陸地が視界から消えたとき泣き出したと言います.もちろん彼等が気弱だったからではありません.その逆だったとしても彼等の恐怖は船乗りの豪胆さを超えるものだったでしょう.
 1492年10月12日午前,幾多の苦難を乗り越えて船団はついにバハマ諸島の小島に到着しました.緑が生い茂る島に到着した時彼らは新しい未知に遭遇することになります.そこには彼等が想像していた東方の人々ではなく,黒い髪,裸身を白や赤に塗り,不思議な言語をあやつるアラワク族が生活していたのですから.
 コロンブスの到着からヨーロッパ人の世界観は大転換しました.未知領域の拡大です.しかし彼等の文化そのものは変わりませんでした.その後のアフリカ大陸を巻き込んだ”新大陸”蹂躙の歴史をたどるのは憂鬱なことだし,またそれはこのメモの関心からはちょっとそれるのでふれません.言いたいことは何かというと,未知の拡大がこのような現実世界の拡大と結びついている場合があるということ,そしてこの場合は偏狭な想像世界が現実によって駆逐されるということです.しかし未知領域の拡大は外側に向かうベクトルがすべてではありません.

物語の可能性(1)未知領域の縮小と拡大

「四次元漂流」についてはおぼろげな記憶だけで,長い間の風化に任せていました.ところが1988年,海野十三の全集が三一書房から出版されたと知り書店に走りました.目指すは言うまでも無く「四次元漂流」でこれは第11巻に納められています.監修は小松左京・紀田順一郎の両氏で正確な発表は昭和21年〜22年2月,「子供の科学」に連載とありました.布団にもぐりこんで読んだ記憶があるのですが,昭和22年では小学2年生でいくらなんでもませすぎ,この辺の事情は良く分かりません.
 女性科学者の名前は雪子,少年の名前は道夫で壮絶な最後の場面は狂気の結末としても幼い僕には激しすぎるものでした.泡立つコップを高くさし上げ,研究の勝利と喜びに震えながら一気にその調製薬を飲み干します.とその瞬間,彼女の手からコップは横に飛び,壁にあたってこなごなに砕け散る.上半身はゼンマイ仕掛の乗馬人形のように踊り,炎のように逆立った髪とかっと見開いた両眼は閉じることなく,苦悶の痙攣と真黒い吐寫物の中でおびただしいを浮かべて死んでいきます.究極の未知を極めようとした科学者に対する容赦ない仕打ちに驚きました.
 未知領域の探求というものが,現代においてはどこか日常生活の営為のレベルで語られることが多くなりました.学ぶ気力も失せたものに,何とかその面白さを理解させたいという配慮がそうさせるのでしょうか.科学が個人の創意や努力を超えて,ますます社会的な集団行為の傾向を増している中で,人間のイマジネーション能力に基礎をおく未知領域はむしろ縮小傾向にあるような気がしてなりません.倫理や人類福祉の制約が必要な応用科学では,もちろんこの傾向は好ましいものです.新技術が膨大な予算を必要とする場合はなおさらでしょう.科学といえども暴走は許されないのです.しかし物語の場合,狭い道徳の規範を守ることは自殺行為と言えないでしょうか.「四次元漂流」の主人公は女性の,しかもフリーランス(このような科学者が居るかどうかは別として)の科学者です.古い洋館を改造しての工房を支配するのは限界を設定しない想像力だけです.社会的規範意識の奴隷になりがちな男性ではなく女性を主人公にしたこと,またその主人公に強いシンパシーを感ずるものとして大人ではなく少年を配したことは偶然とは思えません.どのような犠牲を払っても未知を全身で知りたいとする人間の性向は,必ず新しい未知領域の拡大を追及するでしょう.<続く>

物語の可能性(1)「四次元漂流」と未知の物語

小説というジャンルが完全に行き詰っているという意見があります.沢山の本が毎日のように出版されながら,小説が一種の繰り返しの中で袋小路に入ってしまったという認識です.ひとが生きているかぎり物語ることの欲望が消えるとは思えないともその論者は言っているので,マクロに考えることをしなくなった書き手への手厳しい苦言かもしれません.
 僕は熱心な読書家と言えるほどの背景は無いのですが,個人的な体験から掘り起こして,現代における物語の可能性について走り書きのようなメモを残すことにしました.
 第一回のキーワードは”未知”に関する物語についてです.もちろんあらゆる経験の延長には空間的時間的限界がありますから,厳密の意味ではほとんど我々は未知に囲まれて生きているわけです.したがってここで言う未知というのは類型的なものを意味しているのであって,厳密な意味での個人的体験をさしているわけではありません.
 今から半世紀以上も前,日本のSFの草分けとも言える作家,海野十三により「四次元漂流」が発表されました.あまり昔のことで記憶は定かではないのですが,確か何かの雑誌での掲載だたと思います.四次元世界という未知の領域に臆せず生身の身体をさらす女性科学者が主人公ですが,三次元世界に戻れなくなった彼女は真夜中に一人の少年の助けを得て必死の努力を展開します.真夜中での難解な次元についての講義,そして戻るための興奮,薬液調製の高揚の果ての無残な死が小学校低学年の僕に鮮烈な印象を残したことは言うまでもありません.
 続く

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